【ドイツ渡航記】12日目。核戦争防止医師会議との交流、機関士の職場訪問、最後の集会

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    午前中は核戦争防止医師会議のドイツ支部との交流をしました。


    事務所は広くて資料がたくさんです。8人の専従が働いているようです。

    実は今回愛用したのは国労物販のゆずようかんとバッジ☆

    こちらから福島の現状や診療所の今などを話しながら、意見交換ができました。

    ドイツの医師からはいくつかの意見が。放射性ヨウ素はチェルノブイリよりも多くでており、チェルノブイリよりも症状は早く出ると見ていること、チェルノブイリのときはロシア政府が調査を許さなかったこともあり、「4〜5年後から発症する」というものになんの根拠もないと。

    さらには、チェルノブイリのときにバイエルン州に放射性降下物があり(チェルノブイリからおよそ1000km)、東京などと線量は同じくらいではないかということ、そこでは、死産や先天性障害、ダウン症や小頭症の症状が顕著になったことなどが印象的でした。

    資料などもいただき、事務所をあとにします。

    午後からは、ドイツ都市鉄道の民営化に反対する行動委員会のクルトさんによる職場案内。

    ヘルマン通り駅のは、駅の保安要員の詰所がありました。


    駅保安要員は、300人がすでに削減されていて、その人たちは解雇と広域移動を強制されたようです。さらにこれから250人が狙われている。どこにいくかもわからない。組合は、闘うどころか協力する協約を結んでいるとのこと(機関士労組は自民党のような党派が執行部を牛耳っているみたいです)。

    保安要員の削減により、運転士が自分で回送前の車内の安全、忘れ物などを確認。そのかん運転席はガラ空きです。子どもが間違って動かしたりでもしたらどうでしょうか。
    しかも、30秒でやれ、と言われているらしく、実際は3分くらいかかっていました。こうした中で、運休、遅延は当たり前、民営化でこうなったとのこと。もう成り立っていません。週末は酔っぱらった客もいて、もちろんこれも社会的な問題の中でだけど、殴ってくる人もいる、と。遅延の責任を運転士1人ですべて対処させられるという状態になっています。

    少し前までは、列車が遅れると駅の掲示板で「運転士のせいで」という掲示が出ていたそうです。これをやめさせる闘い現場から組織した。見事やめさせた。現場にはやれるという実感が生まれたそうです。

    一応今は「列車の故障で」となっています。

    こんな話を駅でしている間にも、闘う仲間が声をかけてくれたりします。運転士も声をかけて、列車はさらに遅れますが、へっちゃら。合理化が破綻しているのを俺たちのせいにされてたまるかという怒りと誇りでしょう。30分遅れの運転士が平気でクルトさんに話しかけている姿、「これがドイツ都市鉄道だぜ」と誇らしげなクルトさん。動労千葉Tシャツをきている彼に、普通の労働者が「いいシャツきてんじゃねぇか」と。たんなる言葉ではなく、政治的な表現であることを知っていてのこと、闘いで信頼してくれていることの表現だよ、とクルトさん。

    次に、都市鉄道のクロスするオストクロイツ駅に。回送列車の置き場があります。


    信号など、規制がドンドン撤廃されている。運転士が見なければならない場所が増えた。冷房がきかずに暑い。夏の暑い中で集中しなければならない。こうした中で運転士に責任が転嫁される。ここが闘いだと。


    この駅では保安要員がまだ確保されています。


    信号は離れたところからコントロールしています。各駅の要員が一つに集中され、人員削減と安全切り捨てが表裏で進められます。

    こちらは絶大な権限を持つ駅長がいたころの宿舎。今はこうした人たちはオフィスで駅から離れて仕事しているようです。


    さらに、クルトさんが一緒に闘っている仲間と交流。

    都市鉄道の分割・民営化計画が進められています。十字になっている線路の二本とリング状の線路の計三本をそれぞれ民営化。中国、イギリス、フランスにそれぞれ売却し、それぞれを競い合わせる。さらに検査・修繕も外注化。切符売り場の窓口も別に外注化。ものすごい中身です。

    ドイツには職場代表制度があります。3000の職場で23人が選ばれ、集会が持たれるとのこと。ここでもみんなが闘います。
    分割・民営化されると、組合も職場代表制度も三分割され、分断される、と。
    組合、職場代表会議、両方でたたかっているとのことでした。

    行動委員会は11年12月13日に結成、今までに100回以上のびらまきをしました。短い文章で読んでもらい、だんだん変わってきたと。民営化なんてないよ、という意見が、大変なことだ、ということに。

    仲間の1人が、労働禁止処分の弾圧をうてたこともあり、先日6ヶ月の処分を破ってハンドルを奪還。

    組合が、盗み、横領をねつ造して活動家をパージすることまであったそうです。こうした中でも団結してこうした弾圧を跳ね返して闘っている。

    現場は闘う執行部を求めている。執行部が命令するのではなく、下から闘いが組織されることが大事。
    労働組合の枠を越えて、労働者全体の利害で闘うことが大事だと語っていました。

    さらに国際連帯も進めていると。フランスはドイツに準拠するといっている。イギリスの民営化の現状はひどい。国際連帯はとても大事だと。


    ここま車両センター。実はこの中の見学を考えてくれていたようですが、民営化の渦中で、矛盾がすごく、明るみにしたくないということで会社が許さなかったと。



    そうこうしているうちに、ラストの集会の駅に到着。この街は、最近ネオナチが暴れていたのを住民で立ち上がって追い出した街だそうです。


    郵便局の下請けの車を発見。サービスパートナーなんて言葉で。


    エンゲルスどおりがここにも。


    労働組合を軸にした環境運動なんだとか。福島のことも動労水戸のこともかみ合うかみ合う☆デモの数が減っているのでは、という意見にも動労水戸の闘いを軸に返し、会場も盛り上がり、最後の椎名さんのドイツ語での集会宣言は拍手喝さい。
    http://www.youtube.com/watch?v=QvVEEDYSYMs

    最後の集会にふさわしい盛り上がりでした。


    打ち上げで機関士労組の中心メンバーと集会主催者、僕らで手をつないで「うぉ〜!」と一体化。団結した瞬間でした。いろんな話をして、名残惜しくも最後の夜を満喫しました。

    さて、これから帰還。なんだか寂しいですね…

    【ドイツ渡航記】11日目。機関士労組の活動家との交流と、ドイツの労働運動をめぐる学習☆

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      午前中は、こちらの労働運動活動家の方達と朝食。日本の労働運動の現状を知りたいという質問に答えたり、労働学校をどうやって組織したらいいのかという話になったり。非常に有意義な意見交換となりました。
      クルドの闘いのポスターを発見。


      午後、ひょんなことから、ベルリンの労働者たちの闘いの場所をめぐるフィールドワークに参加できることになり、午後は勉強となりました。

      まずはベルリンの壁の跡。東ドイツの政治的、経済的状態があまりにひどく、逃げようとする人がたくさんいたようです。東ドイツの中にある西ベルリンに入れば助かるということで、東ドイツの、逮捕、地雷、銃をもっての阻止と闘うということが日常だったようです。

      トンネルを掘ったり、改造した車で隠れて行ったり、途中で逮捕されたり、いろんなことがあった。
      ベルリンの壁が崩壊したとき、政治的にはおなじになっても、経済的には東ドイツは大変で、すぐにたくさんの人が西側に出てきたとのこと。空き家になった家にまた占拠する人たちも生まれて来ます。

      フィールドワークは、1900年にさかのぼって、その当時の労働者の住居の話から。農村の多かったドイツは、この頃一気に工業化し、労働者の数は一気に増加、住宅が作られ、ものすごい過密な状況で労働者は暮らしていました。こうして入り口を何度も抜けてアパートへいくような構造がまだ残っています。


      第一次対戦に対して、社民党が戦争賛成にまわるという裏切りがあります。しかし、現場の労働者は頑張って闘う。メーデーも闘われ、1917年のゼネストには、食べ物、戦争反対、植民地反対が掲げられたそうです。

      ロールパンを配ったとされる、ロールパンの教会。

      みんなでゾロゾロと話しながら次のスポットへ。ベルリンの壁を越えようとして何々さんがここで逮捕、とかそういうことが刻まれています。



      建設中の家をそのまま占拠したりする闘いもあったそうです。家賃を払える人はほとんどいなかった。こうした中でこのヴェディング地区は共産党の拠点になっていきます。
      29年の大恐慌では、闘いの拠点に。4万人の家賃不払いの闘い。家賃は食べ物の次だ、スローガン。もう一つはナチス反対。多くは戦争で空襲され焼けてしまったようです。

      1929年のメーデーは、社民党政権のもとでデモ禁止となります。それに対して大きなデモが計画され、警察の暴力的な弾圧が行われます。それに対してさらに大きな抗議デモ。赤旗の出ている窓という窓にに警察が発砲するという事件が起き、民衆の3日間の抗議が吹き荒れ、5月4日に地区が警察によって封鎖されます。集まることが禁止され、30人が死亡、数千人の逮捕と負傷という事態に。こうした社民党の弾圧から、社民党と共産党の分断と対立となり、ここからナチスの台頭が始まります。

      1880年代に作られた橋。下にスラム。共産党のハンガーデモがおこなわれ、警察と衝突した場所です。


      1870年にできたAEGの工場です。9000人の労働者が、働いていました。電球とモーターをつくり、1890年、地下鉄を最初に作りました。まだ線路の跡が残っています。1917ゼネストには、ここの労働者はみんな参加し、ナチス政権になって、活動家が数百人逮捕され、「赤いヴェディング」のナチス抵抗の拠点にだったようです。いまは大学や、工場として使われています。



      ナチスは、この地区に事務所を作ってプロパガンダを開始します。失業率の上昇の中、失業者に給料を出して組織し、社民党などを攻撃させる。その金は企業から集めたようです。さらに、会社の中に組合を組織していきます。70%が共産党・社民党に投票していた地域が、ナチス、社民、共産党の三つ巴にの対立となります。あらゆる集会には別の党派のオルグと衝突。

      警察が作った活動家名簿をナチスが権力をとったとたんに活用し、自宅へ行って逮捕して行った。民衆の側も秘密に森で会議したりして対抗していくが、1936年に500人の活動家が逮捕され、基本的には抵抗が終わる。小さな抵抗は武器工場のサボなど続き、ヒトラーユーゲントに反対する10代の若者の闘いもあったようですが、全体として敗北して行ったと。

      見方はいろいろあるものの、労働運動がナチスと闘った息づかいが聞こえてくるようなフィールドワークでした。自らの歴史を見つめることはとても有意義であり、たくさんのことを学ぶことが出来ました。ブラブラと歩きながら、会話しながらすすんでいくフィールドワークがとても気持ちがよかったです。解散地点では、椎名さんから福島の状況とお礼を言い、バッジを渡して別れました。みんなはバーベキューにいくようでした。

      この日は少し街をぶらついて、明日に備えます。
      ここは活動家の集まるカフェ。


      こちらは少し有名な飲み屋だそうです。いや〜相変わらずビールがうまい!

      明日は核戦争防止医師会議との交流、機関士の職場見学、夜の集会と濃密。頑張ります☆

      【ドイツ渡航記】10日目。ベルリンでの集会と、クルド弾圧抗議に参加。

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        遅めの朝食をとって、ラーベンさんと集会の綿密な打ち合わせ。一緒に集会を準備し団結を固めます。

        集会の会場はクルド民族の抵抗運動の会館です。11月集会のクルドの人たちの登壇の写真、その指導者の写真を掲げた写真を見て、無料で貸してくれることになったのだとか。



        到着すると同時に熱く抵抗運動について語ってくださいました。闘いの中心にある党、KPPの旗は、ドイツ国内において非合法となっており、街頭で掲げることが禁止されています。掲げたとたんに警察が襲いかかってくるそうです。
        一年に一度、民族のお祭りをやる時だけ、警察との衝突などは起こさないというやりとりのもとに旗を出すことが許されていると。

        一つの旗に多くの民衆の人生と抵抗の意思が込められていて、11月集会の中に込められている一つひとつの意味がつかみだされなければならないし、その可能性はひょんなところで発揮されるほど大きいです。

        さて、そうこうしているうちに集会の始まりです。ラーベンさんからこのかんの経緯を話してもらい、かんたんに自己紹介。まずは3・11の動画をみてもらい、椎名さんの報告です。


        ものすごい反応を引き出したのは動労水戸のストライキの動画です。職場で頑張る労働者からビンビン反応が返ってきます。
        機関士労組の中にある、民営化に反対する行動委員会の方は、「自分の闘いに通じるものがあります」と切り出し、「2009年から民営化との闘いが始まりました。安全が切り捨てられることに対して、闘っているのは執行部ではなく、現場の組合員です。起こることはすべて資本の責任であって、労働者の責任ではないのだ、ということを宣伝することに力を注いできました。今では資本の側にいる労働者は10%です。多くの労働者が、事故の原因がわかるようになってきました。まだ行動に立ち上がるというところまではいかないにしてもです。署名活動から現場からの討論をつくり、職場で闘っています。手ごたえはあります。そして動労水戸や動労千葉の闘いも、わたしの手ごたえです。」と語ってくれました。彼はストライキを組織した現場のリーダーで、偉そうな党派の入党の誘いも、「一度きりの人生、おれのすきにやらせろ」と話したそうです。そして、動労千葉のTシャツをきてがんばっているわけです。
        心からつながった瞬間でした。職場から原則的に闘う労働者が国際連帯の基礎を作っていると実感でしました。
        別の方は、「ドイツでは原発運動は市民、労働組合は労働運動、と別れているのに、日本では原発運動に労働組合がいて進んでいるのは、なぜそういうことが可能になるのか」と言った質問も出ました。

        かんしょ踊りは、これまたのりがよく、とりわけ、クルドの人たちがとても気に入ってくれました。


        休憩を挟んでラーベンさんから、「自分は国際連帯のあり方を話し合いたい。09年に動労水戸と初めて会い、『労働組合は、一つの家族のようなものだよ』と言われ、ドイツの労働運動とは全然違うと衝撃をうけた。そして、立ち向かう時は決然として、ものすごく厳しい状況にあっても進む彼らはすごいんだ」と問題提起をしました。会場からは、『日本には労働組合を弾圧したり、活動家を長期拘留したりしているか』『原発について新左翼はどういう立場か』などの質問がでました。福島の放射能の現実と、職場からの闘いの両方がズバッとかみ合う気持ちのいい集会でした。

        集会の中でクルドの女性がTシャツなどをくれ、少し話ができました。党首は14年獄中に囚われていること、クルドは、強制結婚や、他の男性を見たというだけで妻を殺す権利を男性は持っているなど、ものすごい女性への抑圧に反対する中で、女性の運動における位置の大きさがわかってきたと言います。

        今年はじめ、フランスにおいて女性のリーダーがファシスト的な連中に殺されるということがおき、フランス政府は犯人をほぼ割り出しているのに逮捕せず隠ぺいしているとのこと。命がけで抵抗運動を続ける彼女たちに涙が出ます。

        集会を終えて、クルドの人たちがテントを立てて抗議集会をしている現場に訪問。

        国際連帯委員会からも発言させていただきました。
        集会の雰囲気です。
        http://www.youtube.com/watch?v=2SKywWVlOWE


        怒りも高まり、ドイツでは何箇所もの集会が開催され、よる遅くまで続けられるようです。トルコでは高速道路の占拠と、労働組合によるゼネストが呼びかけられ、警察の緊張感も尋常ではありません。
        集会を離れて夕食を食べようとしていると、パーカーなどをきた私服警察が登場、若い活動家を連れていき、身分証を出させていました。目立った活動家に目をつけて名前や住所を調べているのだとか。ドイツでは、デモや集会でマスクをしてはならず、警察の写真をとってはいけないという法律があるとのこと。態度のデカイ警察に怒りがこみ上げました。

        それ以上に重大なのは、歴史が動くような躍動に接することができたということです。エジプトやギリシャの情勢が伝わり、緊迫するヨーロッパを肌で実感できました。

        そして気を取り直してクルド料理の店で夕食。


        自分の足元、職場から闘うがゆえに、原発も、民族差別も、すべて魂で通じ合える感覚に感動を覚えた一日でした。


        ゴアレーベン現地反対同盟の新聞より『日本代表団がヴェントラント(ゴアレーベン)を訪問』(抄訳)

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          私たちのゴアレーベン訪問を、現地で反対同盟自身が報じたものの抜粋です。

          日本代表団がヴェントラント(ゴアレーベン)を訪問(抄訳)

          リュヒョー=ダネンベルク環境保護市民団体(現地反対同盟)機関紙

          2013年6月12日

          ゴアレーベン代表が、日本、とりわけ福島を訪問してから、そろそろ一年目になるが、その日本からの代表団が、数日間の予定で、当地を訪問した。

           かれらの今回の訪問の目的は、全世界の反原発運動の間の国際的連帯を強化し、同時にドイツでの個人的なつながりをも深めることである。というのは、反原発運動が闘っている相手は、国際的なコンツェルンだからだ。このような強力な敵に勝つためには、われわれが強固な国際連帯の組織をもち、情報と意見の交換を活発におこなっていくことが不可欠である。

           こうしたことから、日本とドイツでのそれぞれに違いもある状況、さまざまな反対運動のあり方などをめぐって、ゴアレーベン現地反対同盟の主催で、一晩、深夜にまでおよぶ熱心な討論がおこなわれたことは、きわめて意義が深いことだった。

           テーマの一つは、核にかわる代替エネルギーの問題であった。ドイツでは、かなり進んで実用化されている風力発電の問題が、日本ではまだ、あまり問題になっていないとのことで、今後の情報交換の必要性が確認された。

           また、日本の代表団に深い感銘を与えたのは、毎週日曜の14時におこなわれている宗派(カトリック、プロテスタントなど)をこえた「ゴアレーベンの祈り」という懇談会であった。来年におこなわれる「ゴアレーベンの祈り」25周年記念に、日本の代表団を招待しようということも話題となった。

           日本の反原発運動の現状について、運動の組織化が前進しているという報告がおこなわれた。その中心的組織が、「すべての原発の即時廃止」をかかげるNAZENで、今回の代表団の一人、織田陽介さんはその代表者である。NAZENは、全国で、700人以上が参加する小さなグループを結集している。6月2日には、反原発運動の集会とデモがおこなわれ、8万人という圧倒的な結集がかちとられた。この行動は、すべての原発の即時廃炉だけでなく、安倍政権の退陣を要求した。安倍政権は、核エネルギーを放棄しようとしないどころか、核武装さえも狙っているのだ。日本の反原発運動は、自分たちの目標をしっかりと見すえ、何者にも止めることができない力をもっているということを自覚している。

           代表団の一人、椎名千恵子さんは、福島診療所について、その設立者の一人として特別報告をおこなった。既存の病院が、福島現地の人々に対して、何の助けにもならないなかで、この独立の福島診療所は、本当の診療と援助をおこなうことを目指して設立された。昨年末の開設以来、すでに400人の患者さんの診察と治療をおこなってきている。このような診療所を開設し、運営するためには、当然、巨額の資金が必要だ。あらためて、カンパが求められている。ゴアレーベン現地反対同盟は、昨年8月、福島を訪問して以来、カンパを呼び掛け、多くの人々がこれに応えてくれた。その結果、マーチン・ドナート委員長から、福島診療所に2800ユーロ(約30数万円)を渡すことができた。

           今回の日本代表団のドイツ訪問は、大洪水という困難な条件にもかかわらず、交流に加わったすべての人々にとって、核のない世界へむけての共同のたたかいをおしすすめる重要な一歩となった。ゴアレーベン現地反対同盟は、日本の人々との交流関係を維持し、さらに支援と連帯を発展させていく決意である。

          【ドイツ渡航記】9日目。一日かけてベルリンに移動☆

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            朝食をエテコン会長のアクセルさんととりながら、いろんな話に。

            改めて昨年の来日のさい、日本の運動にインパクトをうけたこと、自分たちも福島の声を抑える動きに対して、一定の突破を作ったということなどを話しました。

            診療所建設委員会とNAZENの両者に、エテコンからカンパをいただきました。

            ジモンくんとベッティーナさんに送られ、デュッセルドルフの駅へ。

            マグデベルクから列車の変更が相次ぐ。エルベ川を渡る列車を限定しているよう。実際にエルベ川は抜き差しならない感じです。



            ようやくベルリンに到着。

            ラーベンさんと合流して、明日のラーベンさんの主催する集会のチラシをまきにいきました。そのあとは夕食。

            今日は9時間電車に乗ったので、あまり報告することはないです。とにかくベルリンについたことが勝利☆明日の報告をお楽しみに。

            【ドイツ渡航記】8日目。エンゲルスの生家訪問からエテコン主催の集会☆

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               朝起きるとエテコン会長のアクセルさんがお待ちかね。久々の再会にも、ハイテンションです。
               
               雨の影響は、エルベ川にとどまらずに、ライン川へと拡大する可能性が示唆され始めているようです。ドイツ西部でも土嚢を積むような事態になる可能性があります。
               ゴアレーベンよりも南にある、アッセという場所には処分場が作られており、ここにもし水が入り込んだ場合、とんでもない核災害になるおそれもあります。改めてフクシマの事態は世界にとってまったく人ごとではないということを感じます。
               オランダは、川よりも低い場所が国土の3分の1を占め、もしライン川が決壊した場合、とてつもない事態になる
              可能性もあるとのこと。

               朝食を食べながら、西ドイツ新聞4面に昨日の椎名さんインタビューを発見!


               気分はノリノリでエンゲルスの生家に向かいます。1900年頃からあるモノレールにのっていきます。川の上を通っていく気持ちのいいコースです。
               途中、BAYER(バイヤー)という化学工場の会社が左右に見えてきました。デュッセルドルフは繊維産業の街であると同時に、こうした化学産業の街でもあります。繊維産業が発展すると、草などの自然染料の生産が追いつかず、化学で色を作る産業が生まれていった歴史があるようです。このバイヤーという資本は、労働者を労災、病気に追い込んでいるひどい会社らしく、この会社の内実を暴露する雑誌をエテコンが発行しています。



              モノレールを降りて、エンゲルス通りを発見。エンゲルスはこの辺ではもっとも裕福な家庭に生まれたようです。繊維産業の家系です。


              エンゲルスの生家に到着!

              近くには、「労働者は鉄鎖以外に失う物はなにもない」というモニュメントが。力強い、労働者の手と足です。


              中は混んでいたので、まずは隣の「ドイツ産業化の黎明期博物館」へ。
              実際の機械が展示され、ちゃんと動きます。振動も含めて体で体感できるようになっています。子どもたちが見学にきています。児童労働の当時の現実を子どもたちに学んでもらうこともひとつの目的のようです。


              エンゲルスの書いた「ドイツ農民戦争」です。またこの表紙がたまりませんね。


              マルクスやエンゲルスの直筆のものが並んでいます。自分の長所は?の質問にマルクスは、「単純なところ」、エンゲルスは「明るいところ」、と応え、二人とも、きらいなことは?に対して「ペコペコすること」と答えています。


              続いてエンゲルスの生家へ。説明してくれる方がいます。


              資本論です。


              1848年革命のときのデュッセルドルフの状況の絵です。反乱に立つ労働者たちを背景に、自治体の代表たちに要求を突きつける労働者代表。相手があわてているのがうまく描かれています。


              エンゲルスの生家をあとにし、街へ。ナチスに対抗したことを伝えるモニュメントが。


              さらに、ドイツの労働運動の歴史を刻んだ幻術的なモニュメントも。

              エンゲルスも銃をとって参加しているところが描かれています。


              昼食をとって、エテコンのインタビューに答えます。やはり日本の運動が今どうなっているのかが一番の興味のようです。

              夕方はエテコン主催の集会。ドイツでもっとも日本人の多いデュッセルドルフ、やはり日本の方も多くきてくださいました。踊りあり、映像あり、それなりにおもしろくできたと思います。診療所のカンパも集まりました☆



              明日はベルリンへ移動です。さて、列車は動いているのか、次回へ続く☆

              【ドイツ渡航記】7日目。デュッセルドルフに移動、エテコンと再会☆

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                ついにゴアレーベンを発つ日がやってきてしまいました。家に急きょ泊めてくれていた方はが、車に乗る前にみてほしいと行って来たのは、紫陽花の花。僕らのために最終処分場反対デモの際に用意してくれたものを、自分の庭に植えてくれました。革命を育てていこう、またきたときに見せるよ、と。涙涙です。


                駅まで送ってもらい、新聞を買ってくると言って帰ってくると、その新聞には診療所へのカンパをしたという記事が。粋なはからいがこんなところにも。


                別れのあと、5時間かけてデュッセルドルフへ。エテコンのみなさん(ブラックプラネット賞を東電に渡すべく昨年来日したパワフルな人たちです)に再会☆
                まず、地元紙のインタビューを受けました。15分で、と言っていたのに、椎名さんの話に聞き入り、結局1時間以上の話になりました。まずまずの成功です。


                その後、街を少し案内してもらい、夕食。

                明日はエンゲルスの生家によって、デュッセルドルフでの集会です☆

                ゴアレーベン核廃棄物最終処分場反対運動の歴史

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                  建設計画の発表から農民の実力での闘い

                   1977年2月22日、「ゴアレーベンに最終処分センター」の計画が発表されました。これは、7km×7kmという巨大な敷地に、ウラン濃縮工場、燃料加工工場、中間処分場(低レベル・高レベル両方)、Castor(廃棄物を入れる容器)工場、再処理工場、最終処分場を建設するという巨大な計画でした。当時、ふつうの農民たちには、この一つひとつがいったい何なのか、全く検討もつきませんでした。

                   こうした状況を突き破って、10日後に反対同盟が結成されます。すぐさまデモを組織し、1万人デモを行うとともに、各地域、さらには農民の組織など、次々と結成されていきました。実は73年から、2つの原発計画が持ち上がっては闘いによって破綻させてきた歴史があり、この闘いが土台となって同盟の結成が行われたということです。

                   ボーリング調査に対して、農民が反対運動を開始、実力で阻止するような闘いも行われました。リュヒョウ、ダネンベルクには、5000人を収容する警察の駐屯地が作られ、反対運動には「犯罪者」のレッテルが貼られていきました。

                   1979年には、州都ハノーバーでのデモが行われました。トラクターだけでなく、鳥や豚などの動物をたくさんつれて、一週間かけてたくさんの村や町をデモしながら、ジワリジワリと進みました。ハノーバーでのデモには、10万人になっていました。当時、スリーマイル島の原発事故があり、その影響もあって、多くの人たちが応えてくれました。

                   これを受けて州首相が、強硬姿勢を崩し、計画のうち再処理工場、濃縮工場、燃料加工工場の計画は断念せざるを得ないと発言します。その後、再処理工場への執着は強く、1981年には20km離れたところに計画を発表、これをさらに闘いで破綻させます。バッカスドルフという場所での計画も持ち上がりますが、これに関しても勝利。ゴアレーベンからも闘いを「輸出」し、現地の事務所に詰めて闘ったようです。

                   1983年〜95年の間、核廃棄物の搬入を阻止し続けました。95年、警察3万人が導入され、ついに搬入が強行されます。この地区の住民は5万人であり、警察が住民と同数いるような状況です。ベルリンでこんなことをしたら、どうなるか、想像してみてほしいと思います。1000人もの人が逮捕されました。ある村では、村を警察が包囲し、でられない状態にし、ある意味村ごと一時的な逮捕状態におくケースもありました。これをベルリンに置き換えたらどれだけのことを意味するのかがわかると思います。

                   私たちは、国際的な連携にも力を入れてきました。ウラン採掘をしているアフリカやオーストラリア、カナダの闘いとの連携があります。1kgのウラン燃料のために掘り出されるウラン鉱は、2万tです。燃料になる1kg以外はすべて廃棄物としてその場に放置されます。これは雨や風で拡散していきます。こうした地域の多くは、先住民の住むところで、土地を所有するという概念がないが故に、住民たちが土地の権利をもって反対することができない構造にあります。ドイツの原発のために、他の国の人が被ばくするということは倫理的には許されることではないのです。原発賛成という人に対して、この話をして納得してくれる人もいます。

                  民主的な組織

                   反対同盟は、およそ1000人の同盟員がいます。住民5万人に対して、およそ2%。ベルリンに置き換えてみればとてつもない数になりますよね。
                   私たちは、気持ちよく闘えるような場所づくりに力を注いでいます。
                   同盟のほかに「イニシアティブ60」というグループがあります。これは、入るのは簡単ではないですよ、60歳以上の人のグループですから(笑)彼らはデモの先頭に立ちます。そして、手書きのビラを警察に手渡します。警察官の側も、自分たちのおじいさん、おばあさんの世代からこういうことをやられるとかなりとまどいますよね。かなり効果的な戦術です。
                   ほかにもたくさんのグループがいます。線路の破壊をする人、座り込みたいひと、道路に座り込みたい人、いろんな人たちです。同盟以外にもその外側に1000人ほど、多彩なグループがあります。事務所では、こうした運動を支える活動が大事です。重大な決定をする際には、様々なグループの代表を集め、民主的な討論で決めます。もし一致しない場合は、別個に進んでともに打つ。これも重要です。ただ、原則があります。物は破壊していい、人を攻撃してはいけない、ということです。線路を破壊したい、というグループと座り込んでいたいというグループは、となりにいれば戦術的には相容れませんから、場所を配慮して決めたりします。たくさんのメガホンが必要になるような行動です。

                   私たちの運動には、3つの柱があります。々報、宣伝活動です。∨[的な闘いもないがしろにせず取り組みます。そして阻止行動です。これらの柱を統一的に組み立て進めるために事務所を活用します。実はこの順番は、重要なものからの順番です。阻止行動だけではありません。ぜひ他の行動もみてほしいと思います。かなり力を入れていることがわかるでしょうし、一人ひとりが、自分にもできる、と感じる分野があることが大事です。マスメディアは、全く事実を報道しません。広報はとても重要です。

                  最終処分場計画に科学性なんてない

                   最終処分場計画は、なんの科学的根拠もありません。地質学者の集まりにおいて、「東ドイツが西ドイツとの国境付近に同じものを作っている。だから我々は国境付近のゴアレーベンに作るんだ」と語られたことがあります。ゴアレーベンは、東ドイツにくちばしのように入った国境付近にあります。ゴアレーベンを中心に円を描けばその70%が東独であり、風向きを考慮すれば、事故が起きたときに東独に影響がでるようになっているのです。逆に言えば、科学的な根拠などないのです。

                   近くに、突然湖ができた場所が2カ所あります。岩塩が水溶性であるために、水が入り、そこが陥没してできたものです。岩塩鉱は本当に危険なのです。
                   岩塩が地表にまででてきている場所もあります。ようは地球は絶えず動いているということですよね。
                   エルベ川は、昔はもっと大きかったわけですが、その川に運ばれてきた影響で、砂がとても多く、不安定です。ボーリング調査のさいには、このゆるい土を、−20℃で氷らせることで崩壊をさけるということをしていました。この温度に保つためのお金が、1日2万5千ユーロかかっていました。90年頃には、0℃にまで温度が上昇し崩壊、死者を出す事故となりました。
                   Castor、岩塩、ねんど層、この三つの「安全弁」があるから、処分場をつくっても大丈夫だとされてきました。しかし、塩は金属を腐食させます。粘土層の中には空間があることも明らかになってきました。そして、400℃の核廃棄物が、塩をナトリウムや塩素に分解し、とくにナトリウムは水と反応して燃焼します。非常に危険です。
                   賛成派、反対派、中間派の地質学者が討論する機会があったのですが、一致した点は、「100万年安定した地」が必要だという点です。こんなことはできるはずがないのです。

                   同盟員には、メールやインターネットを通じて情報を送ります。さらに手紙や月刊の新聞を送ります。同盟費は年間50ユーロで、失業しているなどの理由のある人は20ユーロです。
                   助け合うことが基本です。Tシャツなどの発注も、やすく作ることは可能でも、地元の仲間に発注するなどします。執行部は民主主義を大事にしています。執行部が何かを決めると言うよりは、現場からの意見を形にしていくことに力を注いでいます。

                  【ドイツ渡航記】6日目。ゴアレーベン反対同盟の事務所訪問、闘いの歴史を学ぶ。

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                    朝はケアスティンさんといっしょにスーパーで買い物をして、朝食。
                    ケアスティンさんの家の近く、エルベ川は1cm水位が下がっていました。まだどうなるかはわかりませんが、少しほっとしたようです。マーティンさんの家はすでに浸水しているようです。



                    息子さんや娘さんとは冗談を言い合いながらの朝食。小麦を作っているだけに、パンがとてもおいしいです。ひまわりの種やごま、ライ麦などなどたくさん入っているパンの別称は、「世界選手権」なんだとか。


                    朝食後、有機農法をやっている農家を見学。


                    闘いの最初から参加していると誇らしげに語る農民の人たち。自然と人間のあるべき姿を問い生活することと、核に反対する闘いは、とても密接につながっているようです。

                    デモに参加したトラクターの前で記念撮影。


                    その後、若き組織部長、レナートの家で休憩。彼は仲間と家を借りて住み、薬草や野菜を育てながら、地に足のついた生活をしていました。




                     その後、反対同盟事務所へ。闘いの歴史のレクチャーを受けます。



                     レクチャーの簡単なおこしはこちら
                    http://nazen.jugem.jp/?eid=573


                     事務所の壁には、決定を強行した国会議員の名前が刻まれています。

                     おみやげもたくさんいただきました☆みんな待ってろよ〜


                     勉強の時間も終わり、ケアスティンさんの家で最後の夜ごはん。とても盛り上がり、いい話ができました。
                     椎名さんにケアスティンさんが自分のお気に入りの服を贈呈してくれました。必死に苦闘してきたお互いだからこそ、思いやり、分かり合い、通じ合う。そうした信頼関係の中で、椎名さんがケアスティンさんに言った、「私はあなたで、あなたは私だわ」という言葉をケアスティンさんとして考えて、だったら、ということのようでした。心の通った交流に涙涙。再会を誓って別れ。明日はデュッセルドルフへ発ちます。

                    【ドイツ渡航記】5日目。ドイツの衆院前の行動に参加

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                      朝、さらに洪水の状況は悪化。いくつかの地点で土嚢の堤防が決壊とのこと。ベルリン行きの列車もストップし、連邦衆議院への署名提出は判断を迫られ、マーティンさんに緊張が走るが、車を急きょ出して決行と決断。僕らも同行しました。

                      若いお母さんが子どもを幼稚園に早めに預け、僕らを車に乗せてくれる。すごい闘いをしているゴアレーベンも、現場はリアルな生活の息使いがあり、せめぎ合いがあります。

                      レナートと合流し、2時間半かけてベルリンへ。

                      太陽光発電の広大な場所。


                      衆院前には十数人の仲間が待っていてくれていました。ベルリンでゴアレーベンとつながり行動している人たちが中心。ゴアレーベンの執行部が先頭になってサルの着ぐるみを着て、「見ザル、言わザル、聞かザル」の格好で登場☆廃棄物のドラム缶を叩きながらアピール。マスコミも来ます。


                      動画もどうぞ
                      http://www.youtube.com/watch?v=NXPHo46CUpU

                      ゴアレーベンの岩塩鉱は、水溶性の塩があるということは水がこないということだという論理で、核廃棄物の保存に適していると確定しようとしているわけです。最終処分場選定法は、「科学的調査」のもとに進める、という文言で、あたかもゴアレーベンと別の場所に作るかも、という雰囲気でありながら、結局はゴアレーベンに持って行くという態度が丸見えの法律であるようです。6000筆の署名を提出して反撃。

                      椎名さんも福島の現状を訴えます。

                      もちろんかんしょ踊りもやりました☆

                      相変わらず好評。
                      再稼働反対、という日本語を嬉しそうに言ってくる男性。福島返せ、というスローガンも教えて意気投合。

                      行動を終えて再びゴアレーベンへ。いくつも橋が封鎖されているようで、封鎖前ギリギリの橋をなんとか探して帰ります。
                      警察や消防、軍隊が緊急出動する緊迫した状態。




                      ゴアレーベンに帰り、ケアスティンさんの家に訪問、娘さん、息子さんと一緒にお茶。素敵な家!


                      NAZENの旗を見てインスピレーションが湧いたらしく、家の入り口をピンクに塗り替えたそうです☆

                      その後、「福島は警告する!月曜デモ」に参加しました。

                      椎名さんのドイツ語、ついにお披露目!通じた!動画であります。
                      http://youtu.be/VwoH4e4J54A

                      写真集を作った夫婦から直接写真集を頂きました。このかんの写真をとってくれたものもプレゼントしてくれました。本当に感謝☆


                      そのあとバーベキュー。心の交流となりました。


                      診療所カンパ、実物をこの場でいただきました。マーティンさんの言葉が胸にしみます。
                      http://www.youtube.com/watch?v=iFWFDhqJbw8

                      レナートとは「ブラザーになるか」と酒を酌み交わしました。僕と同じ31歳の組織部長、魅力的な若者です。若者の交流も進めたいですね☆

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